Google が、僕の外部記憶だった。
昔は、うろ覚えのキーワードだけ覚えていればよかった。
「あのチャーシューのレシピ、美味しかったな」と思えば、それっぽい単語をいくつか Google に入れれば、だいたい同じ個人ブログへ戻れた。
技術記事もそうだった。
「あの記事、なんてタイトルだったっけ」と思っても、覚えている単語を二、三個入れれば、昔読んだ個人ブログへ辿り着けた。
今思えば、僕は Google を検索エンジンというより、自分の外部記憶として使っていたんだと思う。
ところが、いつ頃からだろう。
SEO が変わったからなのか、検索結果の性質が変わったからなのか、僕が欲しい記事にはほとんど辿り着けなくなった。
チャーシューのレシピを探しても、大きなレシピサイトばかりが並ぶ。
技術記事も、まだ多少はマシだけれど、昔の個人ブログを見つけるのはだいぶ難しい。
一番象徴的なのは、昔よく読んでいたファンタジー創作のまとめ Wikiだ。
URL は今でも生きている。でも、2026 年の今、Google から辿り着くのはかなり難しい。情報が消えたわけではないのに、僕だけが戻れなくなってしまった。
実は、この話にはもっと昔から伏線がある。
大学生くらいの頃、ニコニコ動画のタグ文化が好きだった。
好きだったと言っても、動画そのものよりタグのほうに興味があった。
当時のタグは、「腹筋崩壊」のような、ずいぶん砕けた日本語が普通にタグとして使われていた。
でも、それが不思議なくらい機能していた。
例えばボーカロイドの動画に「腹筋崩壊」というタグが付いていれば、対象はかなり絞り込まれる。
「面白い動画」という分類ではなく、人間が思い出す言葉そのものが検索キーになっていた。
もう一つ、これは僕の記憶違いかもしれないけれど、タグを整理するためのタグまであった気がする。
タグにも文脈があって、その文脈をみんなで育てていた。そんな感覚だけは、今でもよく覚えている。
当時、このタグ文化について考察したブログ記事をいくつか読んだ記憶がある。
でも、その記事にも、もう辿り着けない。
代わりに当時の論文を読み返してみると、タグは単なる分類ではなく、利用者が共同で育てるメタデータであり、コミュニティそのものを形作る仕組みとして分析されていた。
当時の僕はそんなことを意識していたわけではない。
ただ、「タグって分類じゃなくて、人間の思い出し方そのものなんじゃないか」と、ぼんやり考えていたことだけは覚えている。
その頃、「タグを使った個人用の整理ツールを作れないかな」と考えたことがある。
メタタグというものを勝手に解釈して、「タグのタグ」のようなものを想像していた。
もちろん、形にはならなかった。
当時の僕には難しすぎた。
その後も、Evernote、Notion、Obsidian と、いろいろ試した。
どれも良いソフトだったと思う。
でも、使うたびに違和感が残った。
僕はノートを書きたい。
記録も残したい。
でも、整理はしたくない。
少なくとも、整理するためのコストは払いたくない。
僕が欲しかったのは、整理されたノートではなく、「思い出せること」だった。
そんなわけで、今は stash というものを作っている。
これがまた困ったことに、自分でも何を作っているのか、まだうまく説明できない。
ノートアプリでもない。
ブックマークでもない。
整理ツールでもない。
ソーシャルブックマークでもない。
何なんだと言われると、正直まだわからない。
プロダクト開発では、たぶん一番やってはいけないパターンだと思う。
何を作っているのか、自分でも説明できないものを作っている。
友達にも、「そんなもの役に立つの?」と言われることが多い。
その感覚は、よくわかる。
僕にも、まだよくわからない。
でも、一つだけ確かなことがある。
僕は欲しい。
だから作る。
今のところ、それだけで十分なんじゃないかと思っている。